読んでもタメになりません。

日々の実体験や、ふと頭に浮かんだテーマを基に、思考・考察をしたことを記しまとめるブログ

本気で「人生をやり直したい」と考える人についての話

4月になり、新生活が始まった方もいるだろう。

かくいう俺は、この1年間を大学受験のために自宅浪人をして過ごすが、友人たちは専門学校や大学に進学しているのがほとんどである。

そして、その友人の中の一人がとんでもない専門学校へ進学してしまったらしい。

何でも、初日で担任が「割り算掛け算が出来なくてもそういう人は他にもいるから安心して」等と言うようなところだそうだ。

 

「人生をやり直したい」

 

友人がそう言うのも分かる。自称進学校からそのような専門学校に進学し、周りが不安を抱きつつも希望に胸を膨らませ、新生活だ、と、正に人生を謳歌するこの時期に、3年間もそこに通うと考えると、相当精神も参るだろう。

友人には本当に同情する。

 

さて、ここからは「人生をやり直したい」という人の気持ちというテーマを少し拡張させ、そして「お前には心がないのか」「化け物め」…そのような罵倒を覚悟して記事を書くことにする。

 

「人生をやり直したい」

一見、本気でそう考える人は、これまで、あるいは現在の自分の人生に失望し、絶望しているように思える。

しかし、何故「人生をやり直したい」のか?

 

恐らく、「人生をやり直したい」と本気で考える人は

人生をやり直せば、今度は希望に満ち溢れた人生を歩むことが出来る。

そう考えているのだろうか。

 

 

そうだとしたら、どれだけプラス思考なのか。今、己の人生に幻滅している自分が、今度は明るい未来を歩むことが出来るかもしれないなどと、楽観的に考えられているうちは、大丈夫だと思う。

 

「人生をやり直したい」と本気で考えることが許されるのは

人生をやり直せば、今度は今よりは暗くもなく、平凡な人生を歩むことが出来る。

そう考えている人達だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…というのも、冗談だ。

まず、「人生をやり直したい」と考えるのは、こういう人でないといけない、というのが冗談。

まぁ、冗談は置いておいて…

やり直せば失望するような人生ではなく、平凡な人生を歩むことが出来ると考えている時点で、実際は本当に己の人生に失望するような経験をしてきた訳ではないのだろう。辛口な言い方だけど。

俺は人生をやり直した所で、起こる出来事は変わるとしても、納得のいく人生を歩める気がしないし、それ以前に今までと同じようなストレスを再び経験したら、今度は正気を保っていられるかどうか分からない。

だから俺は、本気で人生をやり直したいとは考えない。

それよりも、ベタだがこれからどうしたら少しでも平凡な人生、更に望んで、幸せな人生に歩めるのか、という事を考えた方が現実的だし、遥かに生産的である。

(現実的か否かの話ではないのだが)

 

…中には、 

「これから先の未来に希望なんてあると思えない。大体、今は惨めな人生だがこの先なんとか希望を掴もうだとか、そんな希望を持てている人よりも、人生をやり直さなくてはいけないと考えている人の方がこれまで不運の道を歩んできた人だ」

 

等と言う人もいるのだろうか…。

笑わせないで頂きたい。

そう考えるのは、これまでの人生の幸不運云々ではなく、自身の向上精神の怠惰だとしか俺は思わない。

 

 

人生をやり直して今度はそれなりの人生を歩みたい。

そんな風に本気で考える人は、いい加減気づくべきなのではないだろうか。

そんな考えは、"無駄(言葉の通りの無駄である)"にプラス思考なだけでなく、頭からネジの外れた人が考えるような愚鈍なものだということを。(そのネジもプラスなのだろうか?)

 

無責任なことを言うようだが、まだ、「人生をやり直したい」と考えているうちは大丈夫だろう。

それよりも、言うまでもなく今後どうするかを考えるほうが懸命だよなぁ。

 

個人的に大分キツいことを書いたつもりだが、一番言いたいことは

「人生をやり直したい」だなんて軽々しく口にするな、などということではなく、

「人生をやり直したい」と考える=人生に絶望している は成り立たないということ。

実際、人生をやり直したいと考える人って少なくないんじゃないの?

俺だって考えたことあるよ。

人生をやり直したいと考えている時点で、幸せでないのは分かるけど、

やり直してでもまだ人生を歩みたいだとか、ましてや、やり直せば今度はここまで酷い人生にはならないと楽観的に考えていられるのなら、それは本当に人生に絶望したわけじゃないよね。

 

 

 

 

 

…さて、興味の無い人が読めば、長々と何をマジになって書いているんだと思うような文章を書き連ねてきたが、以下のことを断りたい。

 

別に俺は「人生をやり直したい」と口にしたり、考えたりする人を一切軽蔑する訳でも不快に感じる訳でもない。

断っておくが、言動の自由というものもあるし、誰が何を言って何を考えようとその人の勝手なので、俺はそれをとやかく言うつもりはない。

俺が不快に感じるのは「俺って人生をやり直したいって考えてるんだぜ。哀れな人生だろ、もう人生詰んでる」等と、軽々しく「自分の人生は悲劇そのものだ」といった旨を口にしたり考えたりする人だ。

キレが悪いが、俺にはそういう人を相手にする気はない、というのを締めとして、ここらで筆を置きたいと思う。

最後に、ここでも断っておくと、これは友人のことを書いた記事ではなく、友人の発言を(勝手に)基にさせて貰って、自分でテーマを築き、自分なりの思考考察をまとめた記事なので、友人に関しての愚痴を書いたものではないのはおろか、友人には一切の不満もない。

幽霊の話

インターネット上で見知らぬ人複数とチャットすることが出来るサービスを利用したときの話。

そのチャットサービスは小学生の頃に利用して以来、今でもたまに利用している。

これはつい最近の出来事だが、幽霊の有無の話になった。

ある人が「霊感のある人羨ましいわ~」「幽霊見れるんだよ?」と発言していた。

それに「幽霊なんて物理学の視点から見れば存在しないことになるんだけど…」とくらいついた俺。(本当はやめておけばよかったのだ)

すると、相手は「悪いけど、うちからしたら幽霊がいないって言っている人はただの勉強不足だから」と発言。

幽霊を信じない人は勉強不足…?どういうことだサッパリわかんねえ…!

「どういうこと?」と、心に思ったことをそのまま発言してみる俺。

「幽霊は本当にいるんだよ。うちは確信した」と相手。

「どういう経緯で確信に至ったの?」と俺。

「めっちゃ調査した」と相手。

「どんな調査をしたの?」と俺。

「インターネットで調べた。本で読んだ。人に聞き込みにいった。研究をした。めっちゃした。」と相手。

「研究って具体的に何をしたの」と俺。

「教えてやらない、絶対に。」と相手。

何だこいつは…と少々頭に来るものがあった。今思い返してみると俺も本当に幼稚だった。

「じゃあ、幽霊の存在を証明することは出来る?」と俺。

「証明してやらない。」と相手。

話にならないな…。

「ああいう夢のない大人にはなっちゃいけないよ」

「うんわかったー!」

などという周りの冷やかしもあり、我を失い、そこからはどんな話をしたのか覚えていないが、見るも耐えかねない、完全な口喧嘩と発展した。

 

 

冷静になり、あとから考えてみると、幽霊など「信じるか」「信じないか」の2択でしかないのに、そこに勉強不足も糞もない。

そして、「幽霊はいる!研究内容は教えてやらない!証明もしてやらない!」というのは「俺は飛べるんだ!どうやって飛ぶのかは教えてやらない!飛んで見せてもやらない!」と喚いているのと同じなのではないかと思った。

それに、幽霊の有無に関しては、俺に夢があるか夢がないかは一切関係ない。

自棄になった俺も馬鹿だった。

今まで、どんな奴も論理的な主張さえ出来れば、納得させることが出来ると思っていたが、今回の件で、本当にどうにもならない相手もいるのではないか、と考えさせられた。

いや、しかし、今回は俺が論理的でなかっただけなのかもしれない。

しかし、誰一人として、幽霊が存在することを証明することも出来ないし、存在しないことを証明することも出来ない。

そんな状況で、幽霊の有無について論理的に主張することなど不可能なのではないか?そもそも、幽霊の有無に関して、論理は存在するのだろうか。

俺は、あらゆるものを全て科学で説明出来るという事を信じる人間だが、科学で説明できないからといって、幽霊はいない。と、一蹴する事を問題だとも思えるが…

よくわからない。

 

学歴と就職の関係の話

1,2週間ほど前に母と口論になった。

きっかけは、ある大企業の話。

そこの企業では食事が出て、どれも豪華なものばかりだ、という話をしていた。

傍からすれば、微笑ましい話だと思うだろう。俺もそう思う。

しかし、その後、母が「あんた、そこに就職しなさいよ」と一言。

対して、「冗談だろ。そこいらの大学じゃ相手にもしてもらえないよ」と、俺。

「でも、そこは学歴は見ないんじゃ」と母。

この発言に、いつものように今の発言も憶測によるものなのか?それならばいい加減にしてくれないかと俺は呆れ、

「それ、何を根拠に言ってるの?」と言った。

「はぁ?」と母は機嫌を悪くした様子。

そして「ネットに、書いてあったんだよ」と答えた。

確かに、学歴を一切考慮せずに、本当に特殊な方式で採用したこともあるんだとか何だとかと、その企業について中学の頃の先生が言っていたことを思い出す。

しかし、それはほんの一握りの人だけで、一般には、当然学歴も考慮される。

以前、興味本位でその企業のページでインターンシップへの参加条件などを読んだことを思い出し、俺はこう言った。「確かに、学歴を一切考慮しないで採用することもあるのかもしれない。でも、それはほんの一握りの人だけ。普通は学歴が考慮されるよね。そもそも、インターンシップへの参加条件として、”学士号、修士号、または博士号の取得を目指し、一定期間内に学士または修士を取得するか、博士課程に在籍していければならない”という事が要求されるんだけど」

対して「はあん?そこはインターネットが好きな人の中に、絶対に知らないような人はいないであろう超有名企業だから、"そんな馬鹿"な考えで人事採用はしないのかと思ってたわ」と母。

この発言が理解出来なかった俺は

「そんな馬鹿な考えって何?企業の、学歴を重視して人を採用しようとする考え?」

と尋ねた。

「そうだよ、まだそんな馬鹿な考えしてる企業いるんだな。学歴は見ないで、優秀な思考力や発想力を持っているやつを取ればいいのに。東大生はプライドばかり高くて使えない奴が多いのに」と、威圧的な態度で答える母。

その考え方に唖然としながらも、

「何故東大生はプライドが高いの?」と俺は聞いた。

「日本一だから。」その母の返事を聞き、俺は黙った。

 

人間として、議論相手に自分の考えとは異なる主張をされ、それに何も異議を唱えられなければ、悔しいのは当然だと今の俺は思う。

だから、俺はその時とても悔しく感じたのだ。

しかし、その時は悔しかった、というだけで、今は自信を持って母の考えに反論することが出来る。

俺は、過去に何も反論出来ずに悔しい思いをしても、その後に、相手の考えを否定するための、"納得のいく考え"が自分の中でまとまれば、直接相手と再び議論をしなくても、そのことに関しては何の蟠りも感じなくなる。

それは俺が議論の目的を、相手をその場でただ黙らせることではなく(ただ相手を他黙らせることには何の価値もないと考えている)、客観的に考えて合理的だと考えられる主張をし、相手をねじ伏せるものだと考えていて、更に、驕りと取られるかもしれないが、"納得のいく考え"はどう考えても正しく、否定されることはない。と考えていることが関係しているのだと思う。

逆に、相手の考えを正しいと認めるか、相手の考えを否定するための考えがまとめられなければ、いつまでたってもその蟠りは解消されないだろう。

俺はそういった性格なのだ。

 

 

さて、実際に母の考えを否定することが出来る、と書いたが、それは以下の通りだ。

 

・母は「東大生はプライドが高く、仕事では使えない」などと、有名企業に勤めたこともなく、俺が小学4年生の頃以降一度も仕事に就いていないくせ、随分な身分で東大生を非難しているが、そもそも、実際に東大生と関わったことは無く、一般に高学歴と言われる大学を出た人と同じ職場にいたこともないので、大方、「東大生はプライドが高く、仕事では使えない」という発言は、根も葉もない、ネットの情報に基づいてのものだろう。

以上のことを基に、母の考えを否定するための俺なりの考えを述べてみると、

実際に東大生と関わったことがないどころか、高学歴と言われる大学を出た人と同じ職場にいたこともない。それにも関わらず、いとも自分が感じたかのように「東大生はプライドが高く、仕事では使えない」と発言するのには問題がある。

大方、その発言は、インターネット上の根も葉もない情報を基にしたものだと思うが(ネットの情報を根拠にするなという訳ではない)、それならば尚更「東大生の全員がプライドの高い人という訳ではないだろう」「馬鹿の中にも、どこでにもプライドの高い人はいる」「東大生はプライドが高く、仕事では使えないとは、何を根拠にしているのか」と、母は考えなかったのだろうか。

プライド、仕事云々は分からないが、少なくとも、東大生は、与えられたものを自分のものにし、課せられたことを地道にこなしていく…ということをしてきたのだろう。その姿勢が評価されるのは当然だと思う。確かに、東大生でも本当に仕事の出来ない人はいるらしいが、それは少数派だろう。ネットで調べてみても東大生の仕事での評価は良いことが多い。「日本一だからプライドが高くなる」という発想は浅はかだが、プライドが高いとしても、そういう訳で信頼されるのではないか。社会に一度も出たことのない身ながら、俺はそう考える。

そして、学歴は重視せずに、思考力や発想力のみを見る母の考えを、俺は不思議に思う。

以前、勉強が出来る=仕事が出来る ではない。と、母が言っていたことがあるが(どちらにおいても目ぼしくない母が言っても説得力に欠けるが)、それと同じで、どんなに奇抜な思考力や発想力を持っていたとしても、仕事でそれが活かせるかどうかは別問題だと思う。

だるいわ~、めんどくさいわ~、やる気なくしたわ~、適当でいっかぁ~

そんな風に考えれば、能力も糞もないだろう。

もちろん、勉強だけ出来ればいいとは俺も考えていない。

それならば、面接の存在意義だってないだろうし。

だから、まずは学歴を見て、そこから面接で人を採る、という方針は、何もおかしなことでも、馬鹿げていることでもないと俺は考える。

 

といったところだ。

 

ちなみに、本題とは関係がないが、

東大生はマニュアル通りにしか行動できない、などとよく非難されるらしいが、何故、東大生はマニュアル通りにしか行動できないと考えるのだろう?

マニュアルをしっかりと頭に叩き込んで、日本一と言われる大学に入れたから?

それならば、それ以外の人はマニュアルすら頭に叩き込めず、マニュアル通りにも行動出来ないということになるのではないか。

俺は東大生がマニュアル通りにしか行動できないとは考えないが、もし、そう考えるのであれば、どちらに価値があるかは、もはや自明だと思う。

 

 

日々の思考考察をまとめ記すためにブログというものをはじめる。

しばしば、思考・考察したことを忘れないよう、どこかに記しておきたいと考えていたので、ブログというものをはじめてみた。

Twitterでは文字数制限というものにかかり、文章を制限内にまとめるのが困難である。

日本語での文章作成の練習も兼ねて、これからは自由気ままに、実体験や、ふと頭に浮かんだことをテーマに、思考したことをこのブログに記していこうと思う。

もしかしたら愚痴調になるかもしれない。